春である。
春である、多分。
桜の蕾が色づき始め、一部では既に咲いているし、遠くに見える山肌も新緑の特有の淡い緑に染まっている。場所によってはもう少しで、一面の桜色に染まる処もあるだろう。
だからおそらく、春なのだろう。ただ、彼女にはそれを確かめる術が無い。
繰り返される季節の移り変わりを目にすることは出来ても、それが具体的にどれくらい経ったのかを、彼女はある時から喪失していた。
それ故、彼女は今が何月何日であるのかがわからない。もしかしたら今年の桜は早く咲いて三月の初め頃かもしれないし、逆に遅くて四月の中頃なのかもしれない。はたまた温暖化で二月、寒冷化で五月かもしれないが、それも彼女には確かめる術がない。
何故ならば、彼女の時間はとある雪の日から止まったままであったから。
『それでも、春は巡ってくる』
あれから、随分と時間が経ってしまった。
経ってしまったのだろう、多分。
時間の経過に関する感覚が随分といい加減になってしまった彼女であるから、今現在があの時からどれくらい経ったのかがさっぱりわからない。一年だろうか。五年だろうか。はたまた十年であろうか。
そもそも、自分がどうして此処に居るのかがよくわからない彼女である。気が付いたら、あの懐かしい制服に身を包み街をさまよっていたのだが、本来なら然るべき処に行くべきなのではないだろうか。そんな気がしないでもない。だが、いくら待ってもそれらしい兆候はなく、当然のことながらお迎え役の羽の生えた子供も、
鎌を持った骸骨も現れることはなかった。
――ぁ。
それまでどことなく歩いていた彼女の歩みが、ふと止まった。
何時の間に辿り着いたのであろうか、目の前にあるのは古びたアパートである。
彼女が、彼と最後まで同じ時を過ごした場所。
……彼と。
彼女の貌が曇る。
思い出してしまったのだ。かつての出来事を。
□ □ □
時間が経過する感覚を喪った彼女であるが、過去の記憶まで亡くしたわけではない。
自分がどうなったのかは大体想像がついていたのだが、置き去りする形で別れてしまった者達のことを考えると、止まってしまった胸が痛かった。
せめて、様子だけでも。
そうして彼女が最初に選んだのは、彼である。
長い時間とは言えないが、もっとも大切な時を過ごしたのは、間違いなく彼とであった。だからこそ一番始めに様子を見ようと思ったのである、
どうしているのだろう、彼は。
そう思いながら彼女は慎重な足取りでアパートの階段を上り、そして見た。
引きちぎられた表札、想像も出来ないほど荒れた部屋、力無くただ座っているだけの背中。
彼女の大切な人は、酷く打ちひしがれていた。
それはもう、見ていられないほどに。
この街には、この世界にはルールがあるのかもしれない。
人気のない道を歩きながら、彼女はそう思う。
自分はそれに違反してしまい、罰として見たくないものを見てしまった。そうも思う。
以前の彼女であれば、その場で泣き崩れていただろう。けれども今、彼女は泣けない。目は背けたが、いや、背けた以上涙を流すわけには行かないと胸中の何処かがそう叫び――彼女はひたすら歩き続ける。
これが、強さだというのだろうか。
かつて彼は、彼女が泣かなくなったのは強くなったからだと言った。 だが、彼女はとてもそうは思えないのである。
目を背けた、身を翻した。
何も出来ないとは言え、逃げ出した自分が強い訳がない。
確かに涙は出ない。今し方見た彼のように、膝を屈しているわけでもない。
あてどもなく、彼女は静かに歩き続ける。
錯綜する思考は只一点に収束し、結局は――ただただ、悲しかった。
□ □ □
以来、彼女は彼女と関わりを持っていた者の傍には近寄らないようにしていた。そうして、辛うじてながらも精神的安定を保ったのである
そのため彼女は街のあちこちを巡ることになったのだが、その結果落ち着いたのが、とある坂――とある学校の通学路となる、長い長い坂道――であった。此処で何をするでもなく、人の流れを見つめることがお気に入りのひとつとなったのである。
時折、街全体をぐるりと回るのも好きだった。気が付いたら変わっている場所が、あちらこちらにあったし、時間の経過を喪失していた彼女にとって、その変化はある日突然変わったように見えたのである。
そんなわけで、彼女は今日もあてもなく歩いていて、うっかりあのアパートの寄っていたという訳であった。
彼女の目の前には、アパートがある。
かつては、目を背けたくなるような惨状があった。
あれから、どれだけ経ったのかわからない。
もし今も彼が膝を折ったままであれば、今度こそ耐えられないだろう。
それでも……と、彼女は思うのだ。
何もかも、変わらずにはいられない。
かつて、彼女自身が発した言葉である。
あれからどれだけ経ったのかはわからない。
けれども、何らかの変化があるくらいは時を経たはずである。いや、経っていてほしい。
それに。
自分は何も出来ないが、彼は強い人間だ。立ち直ることが出来る。
たとえ立ち直っていなかったとしても、何かしらの変化があるかもしれない。いや、変化してしてほしい。
あの日――もう何時の頃だったかわからなくなってしまったけれど、目を背け、身を翻してしまったのだから、今度こそ見届けなくてはならない。たとえ、どんな結果が待っていたとしても、ルールに抵触してしまったのだろうから。
意を決して、彼女は階段を上った。
表札は、丁寧に書き直されていた。だがそれが、彼によるものなのか、誰かが見かねて書いたものかはわからない。しかしそれも、家の中に入ってみればわかることである。
再び意を決して中にあがり――彼女は小さく息を飲んだ。
かつての整然さを取り戻してた部屋の中、窓辺に出来ている春の日溜まりの中で、まだまだ幼い少女が眠っていたのである。
あれから、随分と時が経っていた。
少女の姿を見て、彼女はそう思う。
最後に見たのは、生まれたばかりの赤子の姿だった。それが今では――幼稚園児だろうか、あるいは小学生であろうか、それくらいの年齢に達している。
少女は、静かに眠っていた。出掛けているのであろう、彼の姿は見えない。
彼女は少女の傍に寄り、そっと膝をつく。
微かに震える手が無意識に伸びて――少女の髪を梳ろうとし、寸前で思いとどまる。
伸ばしていた手を引っ込め、その手首をもう片方の手で握る。
怖いのだ。触れられないかもしれないという仮定が。仮に触れられたとしても、何が良くないことが起きてしまったら――もちろん、彼女自身のことではない。目の前で寝ている少女に、である――もう彼女は正気で居られなくなるかもしれない。
震えが止まり、代わりに無力感に苛まれて、彼女は膝をついたままその手を力なく降ろした。
……いいのだ、これで。
彼女は日溜まりの元となる空へと目を向ける。
もういい、これでいい。もう見ることがないと思っていた少女の姿を見ることが出来たのだ。これ以上の何を望もうと――、
――!?
自分の手の甲に走ったそれは、随分前に忘れていた感触であった。
人の温もり。彼女が落ち込んでいたとき、決まって頭の上に載せられた手の温もり。なんと懐かしい感触であろう。
小さな手のひらをいっぱいに広げて、少女が彼女の手に触れていた。
少女は依然眠ったままである。ただ、彼女にはその寝顔が先程より嬉しそうに見えた。
……良かった。
本当に良かった。彼女はそう思う。
変化は起きていた。それも、良い方向に。
彼の姿は見えなかったが、彼女が居たあの頃のように部屋は静謐さを取り戻していた。
そして、穏やかに眠る少女の姿があった。
それだけだが、本当にたったそれだけだが、彼女にとっては十分過ぎたのである。
手の震えは止まっていた。あれだけ荒れ狂っていた思考の波が、今は静かに凪いでいる。
彼女は静かに、少女の髪を梳った。
彼女の指の間を絹糸のように柔らかい髪がさらさらとすり抜けていく。
■ ■ ■
小さな物音で、岡崎汐は目を覚ました。瞬きを数回し、辺りを見回す。そしてその時点で自分が毛布を纏っていることに気付き、首を傾げる。確か日溜まりの中で眠くなったとき、毛布など被っていなかったはずなのに。
「悪い、起こしたか?」
買い物に出かけていた父、岡崎朋也が汐のすぐ傍にいた。ちゃぶ台の上にスーパーの袋がいくつかあるところを見るに、普通に買い物を終えて帰ってきたのだろう。
「ごめんな、眠かっただろ?」
「ううん」
目を擦りながら、そう答える汐。そしてもう一度、首を傾げる。
「どうした、不思議そうな顔して」
「あたたかい、て」
「……何?」
「てをのばしたらあった。あたたかいて」
「そうか……そりゃきっと――」
朋也は途中で言葉を飲み込む。
第一、確証が得られない。
■ ■ ■
五分咲きの桜並木を、彼女は歩く。
何時の頃かわからなくなっていたが、久方ぶりに足取りが軽くなっていた。
それは、ちょっとした出来事であった。
けれども、彼女にとっては奇跡である。
彼女は小さくステップを踏む。さぁ、これから何処に行こうか。
……後に彼女に、それどころでない奇跡が起こる。
けれども、それはまた別の話。
Fin.